話題の任意売却 大阪をまとめて検証
ヘッジファンドは、われわれにとってはプライベート・エクイテイ投資に対するヘッジ手段で、ポートフォリオ全体をバランスする役割があるのです」。
ドロシーは、アプライド・マテリアルズ社からジョイ・テクノロジー杜まで、一九六〇年代から三〇年以上にもわたり、数々のベンチャー企業を成功に導いたアルフレッド・アドラーの名声は聞いて知っていた。
しかし、いまや相当なお歳だろうとドロシーは想像し、「アドラーさんはまだご存命ですか」とたずねた。
ノーマン・マッキンリーは笑い出し、「もちろんまだ元気で、現役です。
すぐそこのオフィスにいますから、呼んできます」と言って、会議室の席を立った。
マッキンリーはドアをノックしながら、「フレッド、すてきなお客さんだよ」と、ファースト・ネームで往年のベンチャー・キヤピタリストに呼びかけていた。
ドロシーが驚いて振り返ると、七〇歳代後半のアドラーが会議室に入ってきて、「ゃあ、こんにちは」と握手を求めてきた。
ドロシーは、一流のベンチャー・キャピタリストとして成功を重ねてきた彼がなぜヘッジファンド投資に力を注いでいるのかを聞いた。
「私は、一九五一年にハーバード・ロースクールを卒業し、しばらくフルブライト弁護士の事務所で働いていました。
フルブライト氏が政界に身を転じた後、私はベンチャー・キャピタルの世界に転じました。
ベンチャー・キャピタリストとしてファンドを組成した経験から、ベンチャー・キャピタルへの投資は運用者の立場からみても、とてもよい投資手段だと思いますよ。
運用手数料と成功報酬料は高いし、リスクのわりにはかなり儲かります。
しかし投資家の立場に立てば、ベンチャー・キャピタルやプライベート・エクイテイは長期間クローズされ、とても手数料の高い投資手段です。
ファミリー・オフィスの経営者の立場から見ると、コツコツと毎年稼いでくれるヘッジファンド運用こそが、運用手数料の点から一番理にかなっています。
今、私はノーマンのような専門家を雇い、ファンド運用者を選別し、とりまとめる自家製のファンド・オブ・ファンズを組成しています。
私のファミリー・オフィスの資産運用の目的は、高いリターンではなく、低いリスクです。
高いリスクを取るのベンチャー・キャピタルやプライベート・エクイティのほうが長期で見ればヘッジファンであれば、ドよりもリターンは高く、割に合う投資手段だと思いますよ」。
往年のベンチャー・キャピタリストの投資に対する考え方は、一貫して非常に明断であった。
ドロシーは、自分の一族の資産をオフショアで共同投資することは可能かをたずねた。
ノーマン・マツキンリーは、「それは可能です。
今、イギリスの生命保険がわれわれのファミリー・オフィスのファンド・オブ・ファンズに共同投資する計画を検討しています」と言い、今後のファンド運用について引き続きドロシーに連絡を取ることを約束してくれた。
帰り際に、アルフレッド・アドラーが「君は日本から来たの」とドロシーにたずねた。
ドロシーは香港から来たと言い、なぜですかと聞いた。
アドラーは「じつは、私の二度目の妻は、日本人の女性とアメリカ人の将校との聞に生まれたのですよ。
第二次大戦後、沖縄に上陸した将校が、ある日本人の女性と恋に落ちた。
彼女はそのとき結婚していたが、夫を捨ててアメリカに来たのです。
そして生まれたのが、私の今の奏です」と語った。
「とても情熱的なお話ですね」とドロシーは相づちを打った。
そして、戦後生まれた彼の新しい妻と彼の聞には大きな歳の格差があることを知った。
さらにドロシーは、ダン・フイツシャーの紹介で、五番街と五四丁目にあるストーニー・キヤピタヘッジファンドの進化ルを訪問した。
ストーニー ・キャピタルはファンド・オブ・ファンズに特化した専門会社で、ケネス・カトラーがそのCEO(最高経営責任者)だった。
ストーニー・キャピタルのファンド業績を見ると、一九九六年設立以来七年間にわたりプラスの年率リターンを出している。
ITバブル華やかだった一九九六年から一九九九年までの強気市場が終わった後も、ストーニー・キャピタルは二〇〇〇年に二ハ・五%、二〇〇一年に八・五五%、そして二〇〇二年にはエンロンとワールドコムで株式市場が急速に下落したにもかかわらず、総じて一・O七%とプラスのリターンを保持した。
これは特記すべきことだったので、ケネス・カトラーとの面談に期待して臨んだ。
ストーニー・キャピタルとの面談では、ケネス・カトラーとその下にいるポートフォリオ・マネジャーのアーサー ・ブラックマンがドロシーに応対した。
ケネス・カトラーは、五〇歳くらいの品のよいイギリス人だった。
コロンビア大学でMBA所得後、ウォール街で石油関連のアナリストとしてキャリアをスタートさせ、ジエネラル・オキシデンタル社を経て、エネルギー資源の商品先物会社でトレーデイングと経営の能力を磨いた。
ヶ、ネス・カトラーがストーニー・キャピタルを立ち上げたのは一一年ほど前だったが、彼を裏方でサポートしたのは、イギリスの大物投資家ゴールドスミスだった。
頭脳明断で人当たりがよく、ウォール街でトレーニングを受けたケネス・カトラーを、石油関連のビジネスにいるころからゴールドスミスが見出し、彼のキャリアを支援してきた。
ケネス・カトラーのファンド・オプ・ファンズの専門会社は、一九九二年にゴールドスミスが執行役員を務める銀行のひとつ、スイスのルガノにある中堅プライベート・パンクの顧客の資産の一部、二億ドルを一任されてから軌道に乗った。
カトラーのファンド・オプ・ファンズのビジネスモデルは、彼が商品先物で養った「ポジションの透明性と完全な流動性」を保つことであった。
そのため競合他社のファンド・オブ・ファンズと異なり、ストーニー・キャピタルは最も流動性の高い米国株のロング・ショート戦略に特化していた。
その意味では、シングル・ストラテジーでかつシングル・アセットではあるが、その中身が小型株、中型株、大型株と複数の異なる専門的な運用者に分散するユニークさを備えている。
ストーニー・キャピタルは、ドロシーとミーティングをしたこの時期、実は大きな問題を抱えていた一九九七年からストーニー・キャピタルは、ドイツの大手商業銀行、Gパンクのへッジファンド投資部門とアドバイザリー契約を結び、この銀行の自己資産の一部、一七億ドルをファンド・オブ・ファンズで運用してきた。
しかも、カトラーの運用はITバブル崩壊後も確実にプラスのリターンを上げ、運用上はなんの問題もなかった。
ところが二〇〇三年が明け、Gパンクは自らがこのうまみのあるファンド・オブ・ファンズのビジネスに乗り出すことを決定した。
Gパンクの経営陣はストーニー・キャピタルに外注せずに、自らの手で同じ運用ができると考え、ストーニーとのアドバイザリー契約をばっさり切ってしまった。
ケネス・カトラーの運用会社は一九九七年以来、Gパンクの一七億ドルの預かり資産運用手数料と成功報酬とで潤ってきた。
ところがGパンクは、ストーニー・キャピタルのやり方を学習し、自前でファンド・オブ・ファンズ運用を始めることになった。
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